たった一行のノンフィクション −スレッドカラーズ短編−

Written by 二級抹茶.
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「それじゃお兄ちゃん、ちょっと待っててね」
 手を振りながらアクセサリーショップに入る美桜を見送り、僕は街灯の柱に寄りかかった。中学生の妹の買い物に付き合う大学生。ちょっと奇妙な構図に思えた。
 キャンパスでの生活にも慣れてきた十一月。上空には抜けるような青空が広がっているが、僕の心は満たされることはないように感じた。秋という季節だから、というわけでもない。
 それは今年の春から。いや、もう少し前だったかもしれない。
 一人の女の子がいなくなり、小さな冊子が残された。幸せだった、と綴られた日記は僕の部屋の机にしまわれている。それが唯一の彼女の記憶であり、二度と会えることはない。思い出すたび、いつも僕に残るのは行き場のない気持ちだった。
 でも、考えても何か変わるわけではない。いつまでも同じところを抜け出せず、迷路に入り込んでしまう。結局は現在を歩いていくしかない。これまでと同じように、僕は気持ちを切り換えようと努めた。それにしても、いつも美桜は買い物にあれこれ迷っている。今日もしばらく戻ってこないだろう。
 そう思って、本屋あたりで時間をつぶそうかと身体を起こした僕の眼に、こちらに向かって通りを歩く女の子が映った。
 楓ちゃん……いや、野宮さんだった。
 ついさっきまで考えていた彼女が、そこにいた。かつてと同じ姿、でも違う時間の中に。心構えもなく戸惑い、考えを巡らせていた僕の側を通り過ぎていこうとする。花束とバッグを手に抱えて、どこかに出掛けるような感じだ。
 すれ違う瞬間、野宮さんのストールが風に舞った。
「あっ」
 野宮さんが小さな声をあげ、それから困ったような表情を浮かべた。両手がふさがっている野宮さんは、すぐに振り向いて拾うことができない。僕は一瞬ためらった後、野宮さんのストールを拾って手渡した。
「ありがとうございます」
 お礼を言う野宮さん。大人びて感じるのは、僕の気のせいだろうか。あるいは二十三歳という年齢を知っているからだろうか。
「あの……どこかでお会いしたことがありますか?」
 ちょっと怪訝そうな表情で、野宮さんがこちらを見ていた。ひょっとしたら、かすかに僕の記憶が残っているのか、などと期待してしまう。たんに僕が見つめていたから、それだけに違いないのに。
「いえ。これからお墓参りか何かですか?」
 質問で矛先をかわすことにした。さりげなく視線を花束へ移しながら。
「ええ。亡くなった父のお墓に、キンモクセイを」
 表情を緩めて野宮さんが答える。
「いい香りですね」
「父はトイレの芳香剤なんて言ってましたけどね」
 ふふっと笑う野宮さんの姿に、楓ちゃんがかさなる。いや、そもそも僕が助けられたことがあるのも、あの事故で父親を失ったのも野宮さんなのだ。それなのに――何かが確実に違う。
「でも、綺麗ですよね」
 言葉は意識して口にしながらも、心の中では上の空ということに気付く。現在の僕が考えているのは楓ちゃんの日記であり、病院で過ごした記憶。それらが一面に広がっていく感覚があった。
「はい。私も好きなんです」
「……」
 それからお互いに言葉がなくなり、しばし見つめ合う。野宮さんが何か言おうと口を開きかけたとき、お店から出てきた美桜が走り寄ってきた。
「お兄ちゃん、お待たせ……あっ」
 野宮さんに気付いた美桜が困った顔で、僕を見やる。
「行こうか、美桜。失礼します」
 僕は野宮さんに会釈し、美桜を引っ張るようにして歩き始めた。野宮さんは何かに戸惑う様子を見せたが、それ以上僕は彼女の方を見なかった。
「いいの……お兄ちゃん?」
「うん。ところで今日の晩ご飯は?」
 全く気にしない風を装う。
「へへへっ、今日はビーフシチューだよ。昨日から準備してるんだ」
 笑みを浮かべて答える美桜。何となくは事情を知っているようだが、僕の様子を見て何も詮索しないことにしたようだ。自然に接しようとしてくれる姿勢がありがたい。
 野宮さんとの再会。予期しなかったわずかな時間の中で、改めて理解したことがある。野宮さんは野宮さんであり、楓ちゃんではないこと。期待してはいけないし、そもそも叶えられないこと。それらが実感を伴って僕の中にあった。
 誰かを好きになるかもしれない。でも、きっと野宮さんではない。
 それが僕にとっての真実に思えた。

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