明日は晴れる! −Ever17短編−

Written by 二級抹茶.
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 ひどく寝苦しかった。
 灰色のもやがかかった世界に、たゆたう感覚。現在は五月だったと思い出す。まだ夏には早い季節と思ってから、ここがLeMUの中だったことに気付く。だったら空調が効いているはず……とぼんやり考えを巡らせていると、声が聞こえた。
「倉成さん、起きてください」
「そ、空? 何かあったのか……」
 目を開けると、そこには空の顔があった。両膝を俺の身体のわきに立てて、こちらを覗き込む姿勢を取っている。視線が届く範囲には、誰も寝ていなかった。会議室の机と、自らが深く掛けているチェアだけが見える。どうやら、ちょっと横になるつもりが寝入ってしまったらしい。
「おはようございます」
 涼やかな、いつもの空の声が響く。しかし状況は、いつもとは違う。
「上にいるときは、上から私の声が聞こえるんですよ。知ってましたか?」
「それは以前に……」
 答えようとした瞬間、空の両手が俺の首筋に伸びてきた。はねのけようと手を動かすことはできる。でも、思いつめた空の表情からは身動き一つしてはいけない、できない雰囲気が伝わってきた。
「倉成さん、私には何もしてくれないんですね」
 哀しみを帯びた空の声に、自らの罪を思い返す。
「わかっています。ちょっとだけ、話を聞いてほしいんです」
 俺はチェアに寝転んだままの姿勢で、話を聞くことにした。空は両腕こそ退けてくれたが、ほとんど密着したような状態から動こうとはしない。
「私には、記憶を上書きすることはできません。一見なくなったようでも、実はつながりが切れているだけ。そして……つながりを取り戻すこともできるのです。それは、意識で制御することが可能な領域」
「空……」
 無意識に名前をつぶやく。今の俺にはそれしかできなかった。
「これまで私は、様々な書籍や情報に触れてきました。もちろん電子的な媒体だけですが、ひとの気持ちが描かれた小説も何冊も読みました。それは私が生活していくうえで、とても意義あることでした。その中で一番大切と感じてきたこと、それは」
 空はそこで、一度言葉を切る。
「結局のところ『汝の欲せざるところ、人に施す事なかれ』――私はそう理解しています。ひとが嫌がり、苦しみ、痛がることをしない。当たり前のことかもしれません。でも! 私には想像だけの世界でしかない。だから倉成さんに、あんなことをしたのかも! 私は、私は」
「ちょっと待った、空! それは違う」
 取り乱す空に、思わず言葉を挟む。
「どう違うというのですか。私の痛みは想像の世界にしかない! 倉成さんとは永遠に縮められない距離があるのですよ?」
 次の瞬間、空のことを無視して身体を起こしていた。あわてて空も間隔を取ろうと起き上がる。俺は手近の壁に近寄り、繰り返し頭を打ちつけた。そのたびに脳髄が揺さぶられる感覚が伝わる。力加減などせずに。
「一体どうしたんですか、倉成さん!」
 空の声を無視して、叩きつける。鈍い音が部屋に反響していた。
「やめてください! お願いですから……」
 意識が飛ぶ直前で、俺は身体を反転させて壁にもたれかかった。
「さすがに、きつかったな」
「倉成さん……」
 ぐらつく感覚の中、空がいる方に視線を向けた。悲痛な表情が浮かんでいる。
「今、空は俺が痛かったことを知っている。それも『痛がる』ことだと思う」
 きょとんとする空を見ながら、話し続けた。
「誰も、全ての痛みを体験できるわけじゃない。本当は想像できることが重要で、次は相手を思いやることができるか、じゃないかな。世の中には、いくらでも無神経な人間が飛び交っている。俺にとって空は、そんな奴らよりもずっと身近な存在なんだ。距離があるなんて、二度と言ってほしくない」
 そこまで俺は、空を見つめて言い切った。いつわりない気持ちだった。
「はい……倉成さんの言いたいことはわかりました。私も取り乱してしまって申し訳ありません。けど、本気で心配したんですよ」
 空の抗議に対して、俺は軽い言葉で返すことにした。もう大丈夫だろう。
「先生は実証主義をモットーとしているのだよ、茜ヶ崎君」
「そうですか、倉成先生。でも、実は……生徒は私だけではなかったんですけどね」
 そう言うと、空は目線を移した。
「え?」
 つられて視線を動かすと、入口近くに優と少年が立っていた。ふたりとも哀しげな眼をして、こちらを見つめている。
「倉成……さっきから見ていたら、ぶつぶつ独り言しゃべったり、いきなり頭を打ちつけたり。お母さんは哀しいわ。ついにあっちの世界に逝っちゃったのね」
「優、違うって。自殺なんてだめだよ! 生きていれば、そのうちいいこともあるからさ、ね、武。思い直して」
「ちょ、ちょっと待て。これには理由が……」
 あたりを見回しても、空の姿が見えなくなった。どうやら完全に、誰からも隠れてしまったらしい。
「面白そうですから、説明は倉成さんからお願いします。それと……先程のお返しです。ふふっ」
 いたずらっぽい空の声が天井から響き、違う言葉が紡がれる。
「あと、想像だけでないものが一つありました。倉成さんへの私の気持ち、です。では、また後程」
 声が聞こえた先を見上げると、青空が見える気がした。もちろん現実にはLeMUの照明だけしか見えない。でも、そんな景色を迎えることができると現在の俺には素直に信じられた。
 いつか、きっと。

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